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大井町物語 第十話

大井町物語

大井町の三菱

三菱は、うちが先たい

大井町で三菱といえば……

早いもんですねえ、私たちの町の歴史を、人物中心に調べてきた「大井町物語」も、いつの間にか、第十話になりました。

 駅前には、阪急、アトレ、イトーヨーカドー、成城石井、ランチ時には定番料理からおいしいラーメン屋さんもたくさんあり、夜になれば、焼き肉屋さんや居酒屋さんという庶民的な雰囲気を保っている、新しいようで、歴史のある町、大井町――。

 そんな町をこまめに歩きながら、ネタを見つけ、ちょっといい話を記している大井町の人物史。長いこと、この町で住んでいる方のなかでも「そうだったの、知らなかった」とおっしゃる方もいらして、思った以上に喜ばれているようなので、ほんと、うれしいかぎりです。

 前置きが長くなりました。

はい、今回は、大井町とは切っても切れない、スリーダイヤのマークでおなじみの「三菱」について、お話をしたいと思います。

 さて、ここで、問題です。

 大井町で「三菱」といえば、なんでしょう。

 ピンポーン。正解です。三菱鉛筆です。

でも、この「三菱」、三菱商事、三菱電機、三菱地所、三菱自動車、三菱重工、三菱UFJ銀行など、あの日本を代表する大財閥の「三菱」グループとは、無関係だということをご存知でしたか。

 大井町駅から徒歩数分の一等地に堂々と本社を構える大手文具メーカー、三菱鉛筆株式会社――。

 そうですよ、マークも同じですし、「三菱」の名も名乗っているのに、まったく、あの政商岩崎弥太郎の「三菱」とは縁もゆかりもない。

それどころか、いま、鉛筆やシャープペンシルだけでなく、その技術を生かして、化粧品の世界まで堂々と実績を残しているのですから、まさに、大井町の誇りと言っていいと思います。

でも、どうして「三菱」なんでしょうか。マークも同じで、文句を言われないのでしょうか。

不思議ですよね。「三菱」の創業者、岩崎弥太郎と「三菱鉛筆」は、本当に何の関係もないのでしょうか。気になったので、ちょっと調べてみました。

大井の「三菱」を作った眞崎仁六

それは、いまから約百五十年前、明治十一年のことでした。

 文明開化が進むなか誕生した日本最初の貿易会社「起立工商会社」に勤務するひとりの商社マンが、その年、開かれていた第三回パリ万国博覧会に陶磁器、扇子、櫛、簪、浮世絵、蒔絵など、わが国の伝統工芸品の出品のために、フランスに向けて旅立ちました。

 その男の名は、眞崎仁六(まざき・にろく)。

弘化五年一月十三日、肥前国佐賀郡巨勢村高尾生まれ。十八歳の時に大政奉還、三百年続いた江戸幕府が倒れ、明治維新となりました。すると、いち早く文明開化の波を察した眞崎は、長崎で英語を学んだのち、郷土の大先輩である大隈重信が後ろ盾となって創業された半官半民の商社「起立工商会社」に入社したのです。

やがて、二十九歳で工場長になった眞崎は、出張先のパリ万博で、奇妙な筆記用具と出会ったのです。

それは細く削った黒鉛のまわりを金属で包んだ、一見、装身具のように美しくデザインされた「ペンシル」というものでした。手に取って、紙の上に書いてみると、どうでしょう。黒い文字がスラスラと書けるではありませんか。

「ペンシル」の語源は、尻尾を意味するラテン語の「ペニシラム」で、初期の鉛筆が毛で包まれていたことからだそうですよ。

話の続き。それまで、日本人にとって、筆記用具と言えば、墨に筆です。眞崎は、筆に比べて書きやすく、墨も硯もいらない、一本あるだけで用の足りる、便利な黒鉛の筆、すなわち「鉛筆」にすっかり魅せられてしまったのです。

「よし、鉛筆を作ろう!」

 帰国した眞崎は、パリで見た「鉛筆」を思い出しながら、昼間は商社で働き、夜は、まったく独学で「鉛筆」づくりをはじめます。

 まずは、芯の研究でした。パリで見た「鉛筆」の芯は、黒鉛と粘土を混ぜ合わせ、固めたものだということは、万博に滞在中に知りました。眞崎は、帰宅すると、さまざまな場所から採れた黒鉛を集め、すり鉢で、粘土とこね合わせます。その粘土も各地から手に入れました。

 しかし、固めてみると、どれもこれも、柔らかすぎたり、折れやすかったり、うまくいきません。

 でも、眞崎はあきらめません。そして、ついに鹿児島産の黒鉛と栃木産の粘土で固めた芯が最良だとわかった時、なんと五年の歳月が流れていたと言いますから、すごいがんばりですね。「石の上にも三年」以上ですからね。

 でも、まだ、芯だけです。芯を挟む軸の材料になる木材を探さなければいけません。削りやすく、しかも丈夫で、第一、まっすぐでなければいけません。研究に研究を重ねた結果、北海道産のアララギという樹木が一番、「鉛筆」に適していることを突き止めました。

 そして、明治二十年、鹿鳴館で舞踏会が催されるなど、文明開化が進むそのなか、眞崎仁六は、それまで勤めていた商社を辞め、東京四谷区内藤新宿(現・新宿内藤町)に、眞崎鉛筆研究所を設立、本格的に鉛筆製作の事業をはじめたのです。第三回パリ万博から、九年後のことでした。

 その後、眞崎鉛筆は、輸入雑貨商の大問屋の市川商店の出資を受け、「眞崎市川鉛筆」となり、業務拡大に伴い、大正四年、大井町にあった後藤毛織の工場を買い取り、翌大正五年、工場を新宿から移転。

 これが、いま、大井町に本社のある、三菱鉛筆株式会社へとつながっていくのです。

大井町のスリーダイヤ

そうそう、なぜ、この眞崎鉛筆研究所が「三菱」か、でしたね。

 眞崎の鉛筆は、明治三十六年、幸運にも政府の公認となり、逓信省(前郵政省・現総務省)が、それまでの油謬鉛筆から、国産の眞崎鉛筆の正式採用を決めたんです。

これは、大きいですねえ。なにしろ、全国の郵便局員が使ってくれるのですから。その時、これを機に、眞崎は自分の家の家紋である三つ鱗をアレンジしたスリーダイヤ、すなわち、「三菱」をロゴマークとして、商法登録したのです。

その後、「眞崎市川鉛筆」は、再び分かれ、「眞崎鉛筆」に戻りましたが、関東大震災で大井町の工場も崩壊。今度は、横浜の実業家、原財閥(原富太郎、号は三渓。横浜三渓園は、元・原三渓の庭園)の援助を受け、色鉛筆を生産していた大和鉛筆が眞崎鉛筆を買収。本社は、原の本拠地横浜になったのですが、工場は同じ大井町に再建され、社名は「眞崎大和鉛筆」になりました。

その後、東京大空襲で工場焼失後、再再建。

そして、昭和二十七年、「眞崎大和鉛筆株式会社」は、社名を「三菱鉛筆株式会社」と改め、社名と商品名の統一を図り、昭和三十九年に大井町に本社を移転、

平成三十年にいまの新社屋が完成したというわけです。

がんばった大井の「三菱」

では、岩崎財閥の「三菱」のほうは、どうだったのでしょうか。

 土佐藩出身の岩崎弥太郎は、明治維新の廃藩置県で土佐藩が消滅した直後の明治六年、海運業を中心とする「三菱商会」を設立します。

なぜ、「三菱」と名乗ったのかについては、岩崎家の家紋「重ね三階菱(さんがいびし)」から来ているのではないかという説が有力です。

そして、岩崎弥太郎、それを機に明治政府の圧倒的な保護を受け、外国との定期航路や軍隊や軍需品の輸送などを一手に引き受け、莫大な利益を上げ、一代で三井や住友と並ぶ「天下の三菱」と呼ばれるようになります。

 やがて、土佐藩藩主である山内家と岩崎家の紋どころをアレンジしたスリーダイヤの商標を旗印にするのですが、正式に商標登録したのは大正初期。

 つまり、会社の名前に「三菱」をつけたのは岩崎弥太郎の方が明らかに早かったのですが、明治十七年から制度が始まった商標登録で遅れをとった。その後、歴史的には、何度も両社で話し合いが行われたようですが、両社間に重複する事業分野がないため、同じマーク、社名の一部に同じ「三菱」を使用することで現在に至っているそうです。

「天下の三菱」から「うちのグループに入らないか」という提案もあったようですが、「三菱鉛筆」が拒絶したという話も残っています。

 そうそう、こんな話、ご存知ですか。

「シャープ・ペンシル」という言葉、実は、和製英語で「メカニカル・ペンシル」と言わないとアメリカでは通用しないそうですが、ではなぜ「シャープ」なのか。

この製品の国産第一号を考案した人が早川徳次さん。のちに早川電機を創業した、あの早川さん。早川電機といえば……。そうです。あの家電で一世を風靡した「シャープ」。

 そこから日本では、「シャープ・ペンシル」と呼ばれたそうですよ。

 では、また次回、お会いしましょう。

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