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大井町物語 第九話

大井町物語

大井町物語第九話

うーん。このままじゃ、いかんぜよ

テレビのニュースで、JRの蒲田駅と京浜急行電鉄の京浜蒲田の間を結ぶ「蒲蒲(かまかま)線」構想を知りました。京浜急行羽田線とJR、それに東急多摩川線が結ばれるそうです。

まあ、実現はずいぶん先になりそうですけどね。

それで思い出したんですけど、東京・品川と神奈川・三浦半島を結ぶ京浜急行電鉄って、よく見ると、ユニークな名前の駅が多いんですよね。

 新馬場(しんばんば)、青物横丁(あおものよこちょう)、梅屋敷(うめやしき)、雑色(ぞうしき)、八丁畷(はっちょうなわて)、仲木戸(なかきど)、追浜(おっぱま)、YRP野比(わいあーるぴーのび)……。

 YRPって、近くにある電波・情報通信技術の研究施設群「横須賀リサーチパーク」の略なんですが、駅名としては、ユニークすぎませんかね。

 そうしたなかで、今日は、その京急の「立会川(たちあいがわ)」、これもかなりユニークな名前ですけど、その立会川駅近くにある「坂本龍馬の像」と、幕末に造られ、設置された「砲台」の話をしたいと思います。

 それにしても、なぜ、坂本龍馬の像が大井町にあるのか。不思議ですよね。龍馬の像と言ったら、高知の桂浜でしょう。しかも、大井町に建てられたのは、「二十歳の坂本龍馬」だそうです。

 「龍馬像」の謎。

まずは、龍馬の生い立ちからはじめますね。

 坂本龍馬は天保六年十一月十五日、土佐藩下級武士坂本直足、幸夫婦の次男として、土佐国土佐郡(現高知県高知市)で生まれました。次男坊といえども、長男とは二十二歳もちがい、兄との間に三人の姉がいました。

 そのためか、子供の頃は大変な弱虫で、いつもいじめられては泣いているような子だったようですよ。意外ですね。

 でも、人間、何かのきっかけで変わるんですねえ。龍馬は小栗流という武道を身につけてから、みるみる強くなったようです。もともと、お父さんは槍の達人だったそうで、その遺伝子がそうさせたのかもしれません。弱虫が急に強くなりませんからね。

 小栗流というのは、小栗伝右衛門正信が始めたスーパー武術で、剣術以外に柔術、棒術、槍術、さらには手裏剣術まで「なんでもござれ」なんですね。龍馬は、十九歳でこの小栗流をほとんどマスターしてしまったんです。

 でも、小栗流は全国的にはマイナーですから、いくら免許皆伝になっても、人に認められない。そこで、龍馬、土佐藩に申し出て、江戸に剣術修業に行くことにした。目指すは、江戸で一世を風靡している北辰一刀流。創始者であり、達人と呼ばれた千葉周作の弟、千葉定吉の門下生になります。

 時に嘉永六年四月、桜吹雪の舞う大江戸にやってきた若き田舎侍、坂本龍馬。さっそく土佐藩下屋敷に住み込み、道場通い。そして、ようやく華やかな江戸の生活に慣れた六月三日、江戸どころかわが国を驚かす「大事件」が起こった。

 泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四杯で夜も眠れず

 黒船の来航です。そうです。マシュー・ペリー率いるアメリカの艦隊が江戸湾浦賀沖に突如、現れたのです。

 この時の、江戸幕府のあわてふためくさまを皮肉った狂歌が、それです。

「上喜撰」とは、宇治の高級茶のことで、蒸気船とかけているんですね。四杯は四隻のこと。「上喜撰という上等なお茶を飲んだところ、わずか四杯で眠れなくなった。異国の蒸気船がたった四隻現れただけで、なんというあわてようだ。これが三百年続いた江戸幕府か。情けないことだ」というわけです。

 開港を迫るペリー。いまはダメなら、来年また来るから準備しておけ。とりあえず、測量だけはさせてもらう。

 そう言いながら、どんどん江戸湾の奥に侵入してくるアメリカ海軍。まるで、ウクライナに侵攻したロシア軍のようです。

 驚いた幕府は、諸藩に品川沖の防備を命じました。そんなこと、急に命令したって、ダメですよね。何の訓練もしていなかったんですから。

 土佐藩は、品川に下屋敷と、それに隣接している鮫洲抱屋敷(幕府から借りている家のこと)を所有していましたから、特に大変です。現在の場所で言えば、東大井三丁目、区立浜川中学校を含めた周辺でしょうかね。

 龍馬も、もはや剣術の稽古どころじゃありません。毎日、その下屋敷から近くの海岸まで通います。アメリカ海軍の兵隊たちの上陸だけは阻止しなければ。

まあ、結局は、ペリーは、わが国に開国を迫るアメリカ大統領の親書を幕府に手渡して、帰って行きましたけどね、「来年、またくるぞ」と言い残して去っただけに、幕府だって、放っておけません。

ペリーの再来航に備えて、土佐藩も屋敷内、立会川河口左岸に「砲台」を建設しました。土佐藩にかぎらず、江戸湾のあちこちに「砲台」の建設がはじまりました。「お台場」の「台」は、砲台のことです。

龍馬は、この時、父親に手紙を書いています。

「父上、近いうちに必ず、異国とのいくさがはじまります」と。

「このままじゃ、いかんぜよ」と、きっと強く思ったにちがいありません。

実際、翌年故郷の土佐に戻った龍馬は、河田小龍の屋敷を訪ねています。河田は、漂流してアメリカに流れ着いたジョン万次郎から聞き取り調査をし、アメリカについての報告書を藩主に提出した土佐藩きっての知識人です。

龍馬は河田に聞きます。

「先生、わが国はいま、列強諸国の脅威にさらされています。いったいどうしたらこの国を、民を外国から守れるでしょうか」

答えは簡単でした。

「外国と対等に戦える海軍を持つことです」

そう言われた坂本龍馬がのちにつくる海軍こそ、「亀山社中」(海援隊)です。

 そうそう、「二十歳の坂本龍馬像」の話でしたね。

 江戸へ来て、二か月も経たないうちに、この立会川で、黒船来航に出会った若き日の坂本龍馬の姿を残しておこうと、平成二十二年、京浜ロータリークラブが品川区北浜川児童遊園内(品川区東大井2-25-22)に寄贈したのが、この像です。よく見ると、履物がブーツでなく、草履だというのが高知の龍馬像とちがうところ。

 そこに「二十歳」の深い意味が隠されているというわけです。

 そして、その近くの新浜川公園(品川区東大井2-26-18)には、当時、ペリーの再来に備えて土佐藩が設置した原寸大の「砲台」が復元されています。また、坂本龍馬が毎日警備に通った道は、いま「龍馬通り繁栄会」という商店街になっています。

 剣術修業のためにやってきた江戸で、龍馬がたまたま出会った「黒船来航」。

人生は、出会うべき時に、出会うべき人や事件に出会う――。

 土佐藩の名もない下級藩士だった坂本龍馬を、日本の歴史の英雄に仕立てた出会いの原点、それが私たちの大井町だったと言ったら、言いすぎでしょうか。

 まだご覧になっていらっしゃらない方、龍馬がお待ちしていますよ。

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