親父はねえ、大井町から追い出されたんだよ。
皆さん、突然ですが、最近、映画館で映画をご覧になりましたか。
そうそう、第九十四回アカデミー賞の授賞式、話題になりましたねえ。そうです、そうです。日本映画『ドライブ・マイ・カー』が国際映画賞を受賞したんですよね。それより、ウイル・スミスがプレゼンターのクリス・ロックを殴打したシーンがすごかった。本気で平手打ちですから。
では、今日の「大井町物語」は、映画に関するお話をしましょうか。
いまやネットフリックスとかで、映画館に行かなくても好きな映画を好きな時間に自由に見られるせいか、町の映画館の数は減る一方だそうですね。まあ、これも、時代の流れでしょうか。
大井町にあった映画館
大井町に古くから住んでいる方にお聞きしますと、昭和三十年代から四十年代の映画の全盛期、私たちの大井町には七つの映画館があったそうですよ。
順不同で名前を挙げると、大井富士館、大井武蔵野館、大井スズラン座、大井セントラル劇場、大井ミリオン、大井映画劇場、大井東映……。それぞれ、経営者が代わったりして、そのたびに名称がちがったりしたかもしれませんが、ともあれ、一時期、大井町だけで七館もあったとはすごいですねえ。
もっとも当時は、日本の映画会社もたくさんあって、東映、大映、松竹、東宝、日活、新東宝がそれぞれ自前の封切(ふうきり)映画館を日本の各都市に持っていましたからねえ。
封切ってわかりますか? 映画のフィルムは丸い缶ケースに入って映画館に届くのですが、その際、はじめてそのケースに巻かれた封を切る。つまり、完成したばかりの映画をはじめて上映するという意味で、その映画館を「封切館」と呼んだんですね。
封切館の次が二番館、三番館と呼ばれる映画館で、すでに封切られた映画を何本か組み合わせて上映していました。二本立て、三本立てなんて呼んでいましたけど。
やがて、そんな映画のブームも終わって、いまや、大井町に映画館はなく、お隣の大森西友内のキネカ大森だけですかね。ちょっと寂しいですね。
さて、本題です。それは、まるで映画のようなこんな物語からはじまります。
時はいまから百年以上前、大正時代の初期のことでした。
警視庁の戸田警部が制服姿で、記者団を前に、こんな会見をしていました。
「エヘン。えー、本日未明、日本体育会会計主任の黒澤勇を、不渡り手形を乱発したという、まことにけしからん不正行為を行った罪で取り調べをおこなったことを報告する次第である」
すると、記者団から次々と手が上がり、質問の嵐となりました。
「警部、その不正行為は、黒澤の単独犯行ですか」
「日本体育会の総裁は、閑院宮(かんいんのみや)殿下、会長は比志島(ひしじま)中将閣下ですよね。黒澤ひとりの犯行ではないんじゃないですか」
「トカゲの尻尾切りではないでしょうか」
戸田は、上に挙げた両手で、それらの声を抑えるようにしながら、その質問にこう答えたのです。
「いま、日本体育会の取引銀行である丁酉(ていゆう)銀行支配人、小川貞一、ならびに閑院宮殿下お付きの松井式部官もしっかりと取り調べている。以上」
戸田は立ち上がり、「警部、待ってください!」と叫ぶ記者たちを尻目に会場を去っていきました。
いきなり始まったので、「なんのことだろう?」と驚かれた方のために、説明しておきますね。
まず、「事件」の舞台となった「日本体育会」からお話ししていきましょう。
「日本体育会」は、明治二十四年八月に、日高藤吉郎という人が創設した組織で、近代国家を目指すために、国民に広く「体育」の必要性を広める目的で設立されました。
まあ、簡単に言えば、明治政府の大方針である「富国強兵」に合わせて、学校教育に「体育」という授業を設け、国民全体に運動を通した体力向上や健康づくりをしていこうというわけです。そのためには、まず、「体育」の教師が必要ですよね。
そのために作られたのが、日本体育会体操学校と附属の荏原中学です。いわば、わが国最初の「体育教師養成コース」というわけです。体操の先生になりたければ、義務教育の小学校を出たら、五年制の荏原中学にお入りなさい。そして、体操学校に進学し、卒業すれば、すぐに資格をあげますよ、というわけです。
しかし、こうした組織を運営するには、国の補助や多くの人たちからの支援がなければできません。そこで、日高は、日本体育会の総裁に当時の皇室から、閑院宮載仁殿下をトップにいただき、会長には軍部から比志島義輝陸軍中将をお願いし、組織の国民的な理解を求めたわけです。
もちろん、「国民の体力向上」を目的とする国家的なプロジェクトですから、一応、うまくいっていたのですが、大正三年、上野で行われた大正博覧会に参加し、体育館まで建設したのですが、博覧会そのものが不人気で、日本体育会は大赤字を出してしまったんですね。
その責任をとらされたのが、日本体育会創立以来、日高藤吉郎の直属の部下として人生を捧げてきた黒澤勇という人だったのです。当時、会計の責任者だったんですね。
警視庁が乗り出してきたということは、この大赤字が業務上横領や収賄罪などの犯罪の疑いがあるということでしょう。新聞記者が「トカゲの尻尾切り」だと詰問したのは、黒澤ひとりの犯行ではない。上層部が関与しているにちがいない、と思ったからです。
実際、最終的には、この事件に関して、個人的な使い込みはなかった、ゆえに単なる経済的な損失だけで、犯罪性はないということで決着がついたのですが、黒澤勇は、世間を騒がせたということで、長い間、貢献してきた日本体育会から追い出されたんですね。
さて、この話のどこが「大井町物語」か、首を傾げる方も多いでしょうね。
実は、私たちの大井町とおおいに関係があるのです。いいですか、タネ明かしをしていきますよ。
まず、日高藤吉郎が創立した「日本体育会体操学校」。これが、現在の日本体育大学、いわゆる日体大です。その附属である荏原中学。そうです、いまの日体大荏原高校です。
そして、その時代、日本体育会体操学校や荏原中学のあった場所が、はい、その通り、私たちの大井町だったんですね。そして、そして、大正博覧会で大赤字の責任をとらされた哀れな黒澤勇は、なんと、なんと、日本を代表する名映画監督、「世界のクロサワ」こと、黒澤明のお父さんなのです。
黒澤明の生まれは品川区大井町
黒澤明は、明治四十三年三月二十三日に東京府荏原郡大井町一一五〇番地(現在の品川区東大井三丁目付近)で、父勇、母シマの八人きょうだいの末っ子として、生まれています。
結構、いい暮らしをしていたそうです。
しかし、この事件がもとで、明、八歳の時に、それまで住んでいた大井町の日本体育会の社宅から引っ越しを余儀なくされ、小石川に移っただけでなく、それまで上流家庭の子弟が通う私立の森村学園から公立の小学校に転校せざるを得なくなったのです。
以後、「引っ越すたびに、家が小さくなった」と自伝に書いていますから、この事件をきっかけに、黒澤家の人々の人生は大きく変わっていったにちがいありません。
黒澤明は、昭和十八年、『姿三四郎』で監督デビュー、昭和二十七年『羅生門』で第二十四回アカデミー賞最優秀外国映画賞受賞し、『七人の侍』、『用心棒』などで、世界的な名監督となります。
ちなみに、昭和三十六年、黒澤プロダクション創立後の最初の作品『悪い奴ほどよく眠る』は、主人公が上司の不正行為の責任をとらされるストーリー。まさに、お父さん、黒澤勇の無念さを映画にしたんですね。
最初の映画館の話と、これでつながったでしょ。
そうそう、名ゴルファー「マルちゃん」こと丸山茂樹選手、日体荏原高校のご出身ですよ。おまけのおまけでした。