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大井町物語十三話

大井町物語

レモン哀歌の碑

そんなにも あなたはレモンを待ってゐた

坂の上の病院

こんにちは。お変わりないですか。

 大井町は、相変わらず、昼、夜ともたくさんの人でにぎわっていますけど、昔のこのあたりはどうだったんでしょうか。

 タイムスリップして過去を巡る旅「大井町物語」。

 前回は、JR大井町駅から第一京浜国道へ出る「ゼームス坂」の由来に関するお話を書きましたが、今日は、その坂の途中にあった、ある病院での涙なくしては読めない感動の「物語」を、ここに残しておきたいと思います。

 その病院の名前は、ゼームス坂病院。

 この「物語」の当時、病院の入口の看板には、こう書かれていました。

 内科・神経科・其他一般

 大正十二年三月十日開院

 入院応需

 ゼームス坂病院

 院長・医学士

    齋藤玉男

 電話 高輪二二一三番

 院長の斎藤先生は、明治十三年生まれで、東京帝国大学医学部を卒業後、ドイツやアメリカに留学した後、日本医学専門学校教授を経て、この大井町駅近くに開業したお医者さんです。当時としては、最新医学を学んだエリート医師だったと思われます。

さて、本題です。

いまから八十数年前の昭和十三年十月五日、このゼームス坂病院の一室で一人の女性が粟粒性肺結核で、見守る人たちの忍び泣く声のなか、静かに息を引きとりました。享年五十二歳。まだ、亡くなるには若かったですね。

 その人の名は、高村智恵子。

聞いたことがありますか。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎の奥さんです。

 智恵子は、どんな人だったのでしょうか。

明治時代の女子大生

智恵子は、明治十九年、福島県安達郡油井村(現・二本松市安達町油井)で醸造業齋藤今朝吉、センの長女として生まれました。のちに今朝吉が長沼次郎の養子となったため、長沼智恵子となります。

 この長沼家は、大きな敷地に酒蔵が何棟も並び、多数の使用人がつねに忙しそうに働く地元では有数の資産家で、智恵子は、何不自由ない少女時代を送ります。小学校、高等女学校ともに首席で、女学校では卒業生総代で答辞を述べたそうですから、勉強もよくできる「お嬢さん」だったのです。

 やがて、智恵子は女学校を出ると、東京の日本女子大学に入学します。明治時代の女子大生です。

 いまなら別に驚きませんが、明治時代、小学校、それも四年が義務教育。しかも女子は勉強する必要はない、という男尊女卑の時代ですよ。大学に進学した智恵子が、いかにお金持ちのお嬢さんで、進歩的な女性だったか、それだけでもわかりますよね。

そして、大学卒業後は、当時としては珍しい女性画家を目指し、教科書にも登場する平塚らいてうが創刊した雑誌「青踏」の表紙の絵を描いたほどでした。

やはり、「これからの女性は、自立し、自分の力で生きなければならない」という「新しい女性」の代表選手のような女性だったのです。

 明治四十四年、友人の紹介で、彼女は、運命の人、高村光太郎に出会います。

実家の破産で、心の病に

高村光太郎は、有名な彫刻家、高村光雲の長男として東京に生まれ、すでに彫刻家、詩人として、活躍していました。

 二人は恋に落ち、出会ってから三年後の大正三年、結婚します。そして、芸術家同士のカップルらしく、東京・駒込のアトリエで、夫は彫刻に、妻は洋画に取り組みます。

 しかし、この頃から智恵子の実家がおかしくなります。

 父親の今朝吉が亡くなったのをきっかけに、大きく手を広げていた酒造業の業績が傾き、昭和四年、とうとう実家は、多額の借財を抱え、破産してしまったのです。

「新しい女性」とはいえども、洋画家を志してはいたものの、智恵子はすべてこれまでお金は実家からの仕送りで食べていましたから、父親の死と家業の倒産は、信じられない出来事だったのでしょう。

 自分の生きてきた基盤が、崩れ落ちたと思ったにちがいありません。

「これからどうしたらいいの?」  智恵子は、この日から、突然、心の病に侵されるのです。

レモンの日

光太郎は、仕事を減らし、智恵子の看病に専念します。

環境を変えればいいかもしれないと、千葉の海岸に家を借り、智恵子の母と一緒に暮らしてみます。

しかし、病状は進む一方でした。そこで、やむを得ず、光太郎は智恵子をこのゼームス坂病院に入院させたのです。

 発症して五年、昭和十年のことでした。

 智恵子は、この入院をきっかけに「切絵」の作品を製作し始めました。まさに、奇蹟が起こったのです。智恵子は、病室で何かに憑かれたかのように、「切絵」に没頭し、なんと入院中に千点以上の作品を残しました。

 しかし、それから三年後、侵された心の病は治ることはなく、ついに退院できぬまま、別の病に侵され、静かに旅立っていきました。

 光太郎は、智恵子が死ぬ数時間前にレモンを口に含んだ時の様子を、詩に残しました。教科書に載っていたかもしれませんね。

 もう一度、書いておきますね。

レモン哀歌       高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

 かなしく白く明るい死の床で

 私の手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパーズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱっとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかずかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山嶺でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まった

写真の前に挿した桜の花かげに

涼しく光るレモンを今日も置こう

大井町駅近くにあったこのゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまいましたが、その跡地にいまでも「レモン哀歌の碑」が残っています。

ぜひ、見に出かけてください。

なお、高村智恵子の亡くなった十月五日は、「レモンの日」として、いまでも智恵子の故郷二本松市では、智恵子を偲ぶ催しが行われています。

高村光太郎が愛する妻のことを書いた詩集「智恵子抄」――。

 ぜひ、読んでみてください。

 もうひとつの「大井町物語」でした。

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