皆さん、「しながわ公園パークホームズ」というマンションをご存知ですか。しながわ区民公園や、しながわ水族館、品川区立鈴ヶ森中学校、大井競馬場、勝島グラウンドの近くです。住所で言うと、品川区南大井一丁目になりますかね。最寄りの駅は京急の立会川駅です。
あのあたりは素晴らしいマンションだらけですが、今日はそのなかでも、特に「しながわ公園パークホームズ」にこだわっていただきたいんです。特に、そのマンションにお住まいの方がいらしたら、ぜひ、この話に耳を傾けてください。
いえ、別に、私たちは不動産会社でありませんから、「お売りになるご予定がありましたら、高く購入しますよ」という宣伝ではありません。もちろんリフォームのお願いでも、ごみ回収変更のお知らせでもありません。
実は、現在、その「しながわ公園パークホームズ」が建っている場所。そこが昔、「飛行場」、エアポートだったという話をしたいのです。もちろん、羽田空港が建設される前の話ですよ。
大井町にあった飛行場
そうなんです。私たちの大井町に、その昔、小さいながら「定期便」の空港があったんですよ。しかも、もっとすごいのは、そこから最初に飛び立った飛行機に、日本で初めてのスッチー、いや、いまその言い方はまずいですね。キャビン・アテンダントすなわち客室乗務員が同乗していたことです。
この話、地元の人でも、意外に知られていないんじゃないですかね。
では、その話をはじめますよ。
時は昭和の初め、昭和六年の年が明けてまもなくのとこでした。新聞にこんな募集広告が掲載されました。
「エアガール」。造語ですね。考案したのは、元日本飛行学校の校長で、東京航空輸送社社長の相羽有(あいば・たもつ)。当時、女子に人気の職業だった「バスガール」からヒントを得たそうです。
当時の新聞には、「空の麗人」もあれば「空中女給」と書いた記者もいたと言われていますが、「エア・ホステス」から来たのでしょうかねえ。あとでわかったことですが、応募者は百四十一人。その大半が官公私立高女在学中の女学生で、なかには女子大生もいたそうです。
世界的に見ますと、この年の一年前の昭和五年、アメリカのボーイング社が八人の女性乗務員を採用したのが、いわゆるスッチーの元祖と言われていますが、その募集事項をよく見ると、「年齢二十五歳以下、体重五十キロ以下、身長百六十二センチ以下」となっていて、さらに「要看護婦免許」とあるんですね。
年齢はともかく、アメリカ人女性で身長百六十二センチ以下はかなり小さいですよね。
航空機自体が小型なので、大きいと背がつっかえてしまう。体格がいいと、動きがとれない。つまり、小柄な女性でなければ務まらない。さらに機体が激しく揺れるため、乗客の嘔吐がひどかったそうです。そのため、看護師が乗っていたわけです。
したがって、現在のようなスッチーの仕事は、この際に採用された三人の日本人女性が、なんと「世界初」の客室乗務員なんですね。
こうして、昭和六年三月五日、東京航空輸送社の「エアガール」採用試験の発表を行われました。いまでも、これを記念して、毎年三月五日が「スチュワーデスの日」になっているの、ご存知でしたか。
さて、この応募者多数の採用試験の難関を突破した日本初、いや世界初の「エアガール」たち、お名前もわかっています。
本山英子(十九歳)横浜フェリス女学院卒
工藤雪江(十八歳)錦秋女学校卒
和田正子(十九歳)東京府立第一高女卒
この三人のお嬢さんです。
そして、試験飛行を終え、いよいよ大井町の空港から「東京―下田―清水」への定期便が飛び立つ日が来ました。
昭和六年四月一日午前十時四十五分、小さな水上飛行機は、操縦士と乗客、報道記者、そして三人の美女を乗せて、大井町鈴ヶ森海岸を後にしたのです。なぜ、水上飛行機かと言えば、下田や清水には空港がなく、それぞれの海上に着水するためだったのです。
その時、同乗した新聞記者の記事が残っていますので、一部だけ紹介しますね。
くだらない記事ですね。窓の外の風景を指さしながら「あれが三保の松原です」とか、「まもなく清水次郎長で有名な清水港に着水します」とか案内してくれたとか、書いていますが、新聞記者がなんだか浮かれている感じでした。
なお、記者が同乗する前に、「三月二十九日に、この水上飛行機に試乗が行われた」と書きましたが、この時に試乗した逓信大臣(のちの郵政大臣)が小泉又二郎、そうです。元総理大臣の小泉純一郎の祖父なんですね。なぜ、郵政大臣が試乗したかというと、この飛行機、メインは東海地方に郵便物を運ぶ役割を兼ねていたからです。
当時、月水金、それも往復一便だけ。郵便物以外、乗客の定員は六人。乗りたい人の東京・清水間の運賃は、ひとり片道二十五円。いまのお金に直すと、約二十五万円だそうです。
大井町を午前十時四十五分に発って、正午に清水港に着水したそうです。たしかに早いですけど、料金は高いですよね。
そうそう、これも書いておかなければなりません。
本山さん、工藤さん、和田さんの世界初の三人の「エアガール」たち。
実は、このように四月一日に客室乗務員として、初搭乗し、話題にもなりましたが、あまりにも狭い機内でのきつい仕事のわりに、給料が安いので、わずかひと月で全員、辞めてしまったそうです。
なんでも、月給が十六円だったとか。当時、東京市の働く女性(職業婦人と呼んだ)の平均給与は、女医さん百四十円、婦人記者六十五円、小学校の先生五十円、女工見習いが十七円だったようですから、「エアガール」、週に三日勤務と言えども、激務のわりに安月給だったようですね。
あわてた会社側は、給料を大幅にアップして、再び「エアガール」を募集したそうですよ。彼女たちにしてみれば、「そら、見たことか」でしょうねえ。
私たちの町の歴史、掘り下げると、まだまだ、新しいマンション群やショッピング施設、公園や道路脇の下に、おもしろい物語が眠っているかもしれませんね。
また、お会いしましょう。