お若(わけ)えの、お待ちなせえやし
えー、先日、テレビの番組でいま人気の漫才コンビ「錦鯉」の長谷川雅紀さんが、同じ北海道出身の人気俳優大泉洋さんに「長い間、帰郷していないんですけど、札幌駅前は、変わりましたでしょうか」と聞くと、大泉さん、「いつの話だよ。だいたい駅前はどこでも変わるでしょ!」と怒鳴っていましたが、これには思わず飲みかけたビールを吹き出してしまいました。
いや、それにしても、東京は品川の南、大井町駅前の変貌には驚きましたね。アトレ大井町の一階には成城石井があり、さらにはデルフランス、グリーングルメ、とんかつ新宿さぼてん、ちよだ鮨とか、ランチ時には大変に若い方でにぎわっておりましてね。また、阪急大井町ガーデンには、なんと「おふろの王様」なんて入浴施設まであるんですから、すごいもんです。普通、駅前にお風呂屋さんはないんじゃないですか(昔、東京駅構内に東京温泉という施設がありましたけどね)。もちろん、買い物に関してのほとんどの用は、先の成城石井とイトーヨーカドーで足ります。
ビジネスホテルもルートイン品川大井町とかアワーズイン阪急なんて、駅から歩いて数分もかかりませんからねえ。これも、羽田空港にも東海道新幹線にもつながっている品川駅にひと駅乗るだけという便利さからでしょうか。いまや、大井町は、東京の「南のエントランス」と言えましょう。
では、江戸時代の大井町はどうだったか。
ここからは、この発展著しい、新しくて古い町、大井町の歴史を「ゆかりの人々や人物」の話を交えて紐解いてまいりましょう。
江戸時代、大井町は大井郷と呼ばれ、中心地江戸に向かう東海道の海岸線の寒村で、近くに鈴ヶ森という刑場があったんですね。
そうですよ、極悪犯罪人が次々とここで処刑されたんですから、恐ろしいところですねえ。一説によりますと、京から東海道を歩いて江戸に下ってくる浪人たちに「江戸で悪いことをすると、こうなるよ」という見せしめのために、江戸の南の入口のこのあたりで「さらし首」をいくつも並べておいたんだと言われています。
ですから、江戸に向かう普通の旅人たちは、夜にならないうちにこの道を急いで、品川の宿に向かったわけでございます。
そんな鈴ヶ森で、「ある事件」が起こります。それが、歌舞伎の有名な演目『御存知鈴ヶ森』です。ちょっと「歌舞伎のイヤホンガイド」のように書いてみますから、舞台を想像しながら読んでくださいね。
幕が上がると、夜の海岸沿い。奥は一面黒幕で覆われています。舞台上手よりに「南無妙法蓮華経」と彫られた大きな石塔。刑場の露と消えた罪人を弔う塔ですね。(現存していますよ)
ここが東海道は、夜の鈴ヶ森です。住所表記で言えば、いまの南大井ですね。舞台の話に戻りますよ。そこには、人相の悪い駕籠かき連中が集まって、焚火(たきび)をしている。江戸の入口ですから、たまたま遅くなって通りがかった旅人や特別な用で急いでいる人を品川の宿まで駕籠でお連れしようというわけですよ。もちろん、特別運賃を要求するでしょうけどね。こういう駕籠かきのことを、当時は「雲助」と言ったそうですがね。
そんなところに、飛脚(ひきゃく)が通りかかる。いまでいえば、宅配便のお兄ちゃん。荷物や手紙の入った駕籠を担いで、品川に届ける。品川で別の飛脚がバトンタッチをして、目的地へ走る。この交代する場所を「駅」と言ったところから、「駅伝」と言う言葉が生まれたんだそうでございますが…。
鈴ヶ森の雲助たち、この獲物を見逃すわけがありません。飛脚を襲って、荷物を盗むんですね。すると、そのなかに一通の書状が入っていた。「因州(鳥取県)江戸屋敷役人宛て」で、「藩内で人を殺して江戸へ向かった若侍がいるから、そちらで捕まえて、国許に送り返せ」ということが書かれていたんです。
まあ、わかりやすくいえば、鳥取に本社のある会社の若い社員が部長を殺して、東京に向かったので、「話がSNSやサンジャポで広まらないうちに、東京支店で捕まえて、本店に連行するように」というわけです。
これを読んだ雲助たち、興奮します。「おいおい、みんなでこの若侍を捕まえて、因州の江戸屋敷に連れて行き、このことは一切誰にも言いませんと言っておけば、一生働かないで食っていけるだけの大金が手に入るぞ」ってんで、手ぐすね引いて、若侍を乗せた駕籠が通りかかるのを待っていたんでね。
そうとは知らずに、その駕籠が通りかかる。そこで、雲助たちワーッと駕籠を囲んだから、たまらない。若侍を乗せた駕籠かきたちはあわてて逃げた。「だから、鈴ヶ森を夜通るのは嫌だって言ったじゃん」
異変に気付いた若侍が、駕籠の中から颯爽と現れました。上役を殺して江戸へ逃げたというから、どんな悪党かと思ったら、これがなんと美青年、白井権八(しらいごんぱち)。その姿かたち、その動き。日本ならジャニーズ系、韓国ならBTSのメンバーか。
さて、歌舞伎座の舞台に鉦や太鼓、三味線の鳴り物が響き、大立ち回りがはじまります。
「カムカムエブリバディ」のモモケンこと桃山剣之介ではないけれど、「暗闇でしか見えぬものがある」とばかり美青年、刀を抜くやいなや快刀乱麻、一刀両断、次々と襲いかかる敵をバッサバッサと切り伏せた。終わってみればロッテの若武者佐々木朗希、十九奪三振、完全試合。
鈴ヶ森に静寂が戻り、権八、近くに止まっていた駕籠の提灯に近寄り、その灯りで、いま雲助を斬った血刀を見ます。真っ暗な静かな夜、駕籠提灯の風に揺れるロウソクの光だけが、あたりを照らす。
すると、突然、その駕籠のすだれが上がります。ハッとする権八。まさか、灯りを借りただけの駕籠に人が乗っていようとは。驚いて、その場を去ろうとする権八。駕籠のなかの客の低く鋭く響く声が、鈴ヶ森に突き刺さります。
「お若(わけ)えの、お待ちなせえやし」
「待てとおとどめなさりしは、拙者がことでござるかな」
いいとこ、いいとこ。
声をかけたのは、侍が威張りくさっていた江戸中で、「弱きを助け、強気を挫く、男のなかの男一匹」花川戸の幡随(ばんずい)長兵衛(幡随院長兵衛とも言う)。
幡随長兵衛と聞いて驚いたのは、白井権八。なにせ、江戸中で子分三千人という大親分、なんとその名は、権八の故郷、因州まで知れ渡っていたからです。
お互い、自己紹介があって、何か困ったことがあったら訪ねて来いと、「権八どん、ゆるりと江戸で」と長兵衛、道中合羽を肩にかけ、双方、見合ったところで、拍子木がカチーン、カチーン、カチカチカチカチ……と鳴って幕がおります。
この二人のはじめての出会いが、いまの大井町だったというお話でございました。
え、このあとですか?
歌舞伎では、幡随長兵衛は、旗本水野十郎左衛門に騙されて、湯殿で惨殺され、白井権八は、江戸は吉原の遊女小紫と恋仲となり、百件を超す殺人を犯し、やがて、獄門(死刑)になります。
歌舞伎の名場面からはじまった「大井町物語」、どうでしたでしょうか。
また、お会いしましょう。