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大井町物語 第三話

大井町物語

大井町物語第三話

さらば、ハイセイコー

えー、わが町大井町には、「大井」と名のつく駅が三か所ありますのは、ご存知ですね。
まず代表的なのは、JR京浜東北線、東京臨海鉄道りんかい線、東急電鉄東急大井町線の駅となっているご存知「大井町駅」、同じくJR横須賀線、湘南新宿ライン、さらに新たに加わった相模鉄道(相鉄)直通線の途中駅「西大井駅」、そして、もうひとつの駅、おわかりですね。
毎年冬季限定で開催され、デートスポットとして大人気の「東京メガイルミ」が近くにある、東京モノレール羽田線の「大井競馬場前駅」です。え、ひょっとして、まだ「メガイルミ」に行ったことがない? だったら、クリスマス前後、あるいはバレンタイン・デートにぜひ訪れてみてください。競馬場近くだけに、まさに「大穴場」ですから。
ツイッターには、「今まで見たことがない、こんなに広範囲のイルミネーションに感動!」、「まさにインスタ映えする写真が何十枚も撮れる!」、「これは単なるイルミネーションを超えた世界的なアートだ!」なんて声が続々寄せられています。
あっ、そうだ。今日の話はそっちではないんです。その「メガイルミ」近くの大井競馬場に関係する、ある「馬」の話です。
恒例の超難問です!
いま、若い人は数を数えるのに、なんでも「一個」「二個」と数えますが、物によっては、正式な数え方があるんですね。たとえば、イカは一杯、二杯、タンスはひと棹(さお)、ふた棹、刀はひと振り、ふた振り、兎は一羽(わ)、二羽です。では、ここで問題です。馬は、どう数えるでしょうか。
え、一頭、二頭? 自信ありますか。
ぶー。
「大井」では、馬は一着、二着と数えます。
そうですよね。普通、一頭、二頭ですね。ごめんなさい。ここは寄席ではないですからね。
さて、今日は、大井競馬場で育ったある競走馬の話をしたいと思います。その名馬の名は、「ハイセイコー」。
前置きが長くなりました。

それでは、『大井町物語』第三話

題して「さらば、ハイセイコー」。はじまり、はじまり~!

昔、昔、それは、一九七〇(昭和四十五)年のことでございました。
北海道日高山脈の麓、新冠町の武田牧場に一頭の競走馬の赤ちゃんが誕生しました。
当時、牧場長だった武田隆雄さんによれば、その時、生まれた仔馬をひと目見ただけで「この仔は、すごい馬になる」と直感したそうですよ。プロはわかるんですねえ。
馬体が大きかっただけでなく、立ち上がろうとする脚や蹄が、他の馬の赤ちゃんとちがって、異様にたくましかったからだそうです。昔の人は、そういうことをこう言いました。
栴檀(せんだん)は双葉より芳し。「のちに大成する人は、子供の頃から優れていること」という意味です。栴檀とは、香木のひとつで白檀(びゃくだん)のことです。この植物は、芽が出た時からいい香りがするのだそうですよ。
いや、もっとわかりやすい例を挙げると、大リーグ二刀流で大人気の大谷翔平選手、小学校六年生の時の身長が百六十七センチだったそうですよ。六年生の平均身長が百五十一センチですから、その時から十六センチも飛び抜けて大きかった。まさに、この「馬」と同じ状態ですねえ。
武田さんの予想は、大当たり。走りはじめるようになると、まだ仔馬なのに、他の馬と集団で走っても常に楽しそうに、先頭を切って走ります。
母親「ハイユウ」の「ハイ」をとって、この仔馬、名前は「ハイセイコー」と名づけられました。「はい! 成功」という意味でしょうか。はっきりわかっていません。
そして、いよいよ「競走馬」になるために、この仔馬、上京します。一九七一(昭和四十六)年九月のことでした。母の「ハイユウ」を管理していた大井競馬場の調教師、伊藤正美さんの伊藤厩舎に入ります。競馬の馬として、本格的に調教をさせるためでした。そうです。わが町「大井」が第二の故郷になったのです。
競馬は、新馬戦と言って、最初は同じ年に生まれた馬同士で競走させますが、明らかにハイセイコーの体がでかい。他の馬と比べて、どうみても「大人と子供」だったそうです。大谷君の小学校の運動会の徒競走を想像してみたらわかりますよね。
ハイセイコーの大井競馬デビュー戦は、一九七二(昭和四十七)年六月と決まりました。ところが、突然、中止になってしまいました。
なぜか。
ハイセイコーの関係者に「どうせ、お前らこの馬に勝てっこないよ」と馬鹿にされた他の馬の馬主さんたちが反発して、「なんだよ、偉そうに」と、出走を拒否したからです。大谷君の運動会はどうだったのでしょうか。どなたか、ご存知の方、いらっしゃいませんか?
大井競馬場運営関係者が間に入り、いよいよ七月十二日、ハイセイコーのデビュー戦が行われました。鞍上は辻野豊騎手。全馬一斉にスタート。大井競馬場のダート(芝でなく土)千メートルをあっと言う間にハイセイコーが駆け抜けた! タイムは五十九秒四。新記録! 二着馬との差は、七馬身。
一馬身が約二・四メートルだから、十五メートル以上離しての一着。二戦目には、二着との差はなんと十六馬身もあったといいますから、約四十メートル。すごすぎでしょう。
「大井競馬に怪物誕生!」。マスコミが騒ぎ出したのも、この頃です。そうなると競馬評論家たちも、「地方競馬の怪物ハイセイコー」を見ようとやってきます。
そして、レースを見て「この馬は、中央に来ても活躍できる」と言い出すんですね。
そうなんですよ。大井で行われるレースは、東京都内で行われているのにかかわらず、あくまで地方競馬なんです。いい機会ですから、中央競馬と地方競馬のちがいをちょっと調べてみました。
中央競馬とはJRA(中央競馬会)が主催する競馬で、国が全額出資する公営競技で、函館、札幌、福島、新潟、中山、東京、中京、京都、阪神、小倉の各競馬場で行われます。管轄は、農林水産省です。
それに対して、地方競馬は都道府県や市町村が主催し運営する競馬です。収益は、都道府県や地方公共団体の利益として計上され、県の畜産業や公共の福祉に使用されます。どこで行われているかというと、北海道で三か所(帯広、門別、札幌)、東北に二か所(盛岡、水沢)、東海に三か所(名古屋、中京、笠松)、北陸に一か所(金沢)、近畿に二か所(園田、姫路)、四国(高知)、九州(佐賀)、そして南関東に四か所(浦和、船橋、川崎、大井)です。
中央競馬と地方競馬の大きなちがいは何かというと、中央は大きなレースのほとんどが芝コースで行われますが、地方はダートだということと、優勝賞金も圧倒的にちがいますよね。
たとえば、中央では「ジャパンカップ」、「有馬記念」の優勝賞金はそれぞれ四億円、「日本ダービー」で一着になると二億円です。それに比べて、地方競馬の優勝賞金が安い。一時期、高知競馬では一着賞金が十一万円、五着に入賞した馬の騎手がもらえた金額が五百円なんていう時もあったとか。だから、中央競馬に血統書付きのいい馬が集まるわけですよ。
そんななか、大井競馬場に突如、現れた地方競馬の怪物ハイセイコー。その後も圧倒的に勝ち続けて、六戦六勝。
そして、年が明けたばかりの一九七三(昭和四十八)年一月十二日、ハイセイコーは、当時の金額五千万円でホースマンクラブに売却され、ついに中央競馬に殴り込みをかけたのでした。
さあ、わが大井がたくましく大きく育てた地方競馬のきらきら星、ハイセイコーは、中央競馬の超一流エリート馬たちを次々と蹴散らして、美しく整えられた芝の絨毯の上を一気に走り抜けるか!
ハイセイコーが府中東京競馬場の鈴木厩舎に入厩すると、競馬界はその話題一色になりました。そして、ハイセイコーの中央競馬最初のレースは、三月四日の「弥生賞」に決まったのでした。
「弥生賞」当日の中山競馬場には、朝早くから「ハイセイコーをひと目見よう」と大勢の競馬ファンが列をなして集まりました。パドック(発走前に観衆に馬の調子を見せる場所)に雄姿を現した時、その歓声にハイセイコー自身が驚いたほどでした。
「がんばれよー! ハイセイコー、頼むぜェ!」
きっと地方出身者なんでしょう。まるで自分自身に言い聞かせるように、大きな声をかけたファンがいました。
そして、本馬場に入場し、騎手が乗り、軽く疾走の練習を繰り返し、いよいよゲートインしようとしたその時、雷鳴のように場内から大歓声が上がったのです。これには、さすがの怪物ハイセイコーも驚き、ゲートに入るのを拒みました。きっと、鼻息荒く、興奮していたのでしょう。
ハイセイコーを北海道から受け入れ、大事に育て上げ、中央に送り込んだ大井の厩舎のスタッフたちも固唾(かたず)を飲んで見守っています。勝てる、絶対、中央でもやってくれる。ただ、ひとつだけ心配がある。大井では無敵だったが、ここには、ライバルがいる。それも、恵まれた星のもとに生まれ、素晴らしい環境で育ったエリート馬ばかり。しかも、きれいに刈り揃えられた芝のコースははじめてだ。がんばれ、ハイセイコー。これが、中央競馬だぞ!
大井競馬のスタッフは「ハイセイコーなら勝てる」という自信の裏に、底知れぬ不安を胸に、スタートの瞬間を待っていました。鞍上はベテラン、増沢末夫騎手。増沢さん、お願いします。ハイセイコーのために、多くのファンのために、そして、俺たちのためにも……。
ガチャ! ゲートが開いて一斉にスタート。「大井の星」ハイセイコーの中央競馬会での第一戦です。地鳴りに似た観衆の声があたり一面に響き渡りました。すべての人々の目がハイセイコーに向けられています。
(あっ、まずい!)
大井の関係者のひとりが声を上げました。なぜなら、大井でのこれまでのレースなら、スタートした瞬間から猛ダッシュでトップを切るはずが、この時のハイセイコーは、いつもの力強さが感じられなかったからでした。
一、二、三.四……。最初のカーブは四番手で回りました。その後、逃げる先頭馬を追っていきますが、第四コーナーでは、まだ三番手。
テレビの実況もあわてています。余裕で優勝すると思っていたのが、思わぬ展開になっていたからでした。「ハイセイコー、まだ三番手。やっぱり、大井の馬は中央には歯が立たないのか! さあ、最後の直線に入りました」
この時、アナウンサーの言う通り、大井の馬は、中央では勝てない。誰もが、そう感じていたかもしれません。
しかし、さすがハイセイコー。ゴール前、なんとか前を走る二頭を抜き去り、一着でゴールしました。すごい歓声です。ハイタッチを繰り返しているファンもいました。
「勝ちました。ハイセイコーが勝ちましたが……苦しかった!」
実況アナの気持ちが、よくわかるレースでした。さすが、中央競馬、ハイセイコーといえども、同じ三歳のエリート馬たちは、そうは簡単に勝たせてくれないことを、大井の関係者たちは、この弥生賞で知ることになりました。
ハイセイコーは、続く「スプリング・ステークス」も最後の直線でなんとか一着になりましたが、増沢騎手の表情は冴えず、インタビューもまるで負けたようでした。この頃からです。中央デビュー前、あれだけ絶賛していた競馬評論家たちの手のひら返し発言が相次ぎました。
「怪物とは、名ばかりだ。大したことはないね」、「どうやらハイセイコーという馬は、我々が抱いていたイメージとはややちがう馬のようだ」、「中央競馬をなめちゃいけないね。やはり野に置けレンゲソウだ」……。
でも、ファンは一向に減りませんでした。むしろ、これまで馬券を買ったことのない若い人たちがハイセイコーの登場で、競馬に興味を持ってくれたのです。
これは、まさに現在に続く大きな転換点でした。競馬ファンといえば、競馬新聞を片手に持って、負けると騎手に罵声を浴びせる鉢巻き姿のおっさんのイメージが強かったのですが、ハイセイコーの登場で、一気に応援のための若者たちが次々と競馬場に来るようになったのです。
そして、中央競馬三歳馬クラシック三冠(皐月賞、ダービー、菊花省)のひとつ、「皐月賞」が四月十五日、開催されました。名馬の登竜門。さあ、がんばろう!ハイセイコー。ところが、この日はあいにくの雨。ハイセイコーにとって、はじめての重馬場です。
スタート! ハイセイコーは七番手から徐々に前方へ。第三コーナーで順調に先頭に。と思ったら、どうしたわけか、外側に外れ、二番手に。ワーッという歓声。「ダメじゃん、やっぱり」が評論家、「がんばれ!」が若いファン。
ハイセイコー、すぐに立て直し、再びスピードを上げ先頭に立つと、そのままゴール! まず一冠。ここで、ハイセイコーは栄えある皐月賞馬になったのです。
これだけでも十分、満足すべきですが、ファンは自分の人生を重ね、地方競馬の出身馬が、中央競馬のスターたちを打ち破り、次のダービー馬になることを期待します。
この頃、なんとハイセイコーが人気漫画雑誌『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』の表紙になったり、厩舎には「東京都 ハイセイコー様」と書かれたファンレターが届いたというのですから、いかに若者に人気があったか、わかるというものですよね。
続いて五月六日、「NHK杯」。この時、観客数は十六万人を超えたというから、すごい人気でしたよねえ。
スタート! 「あっ」ファンは一斉に声を上げた。ハイセイコーが他の馬に前をふさがれ、思うように進めないからです。アナウンサーが叫びます。「ハイセイコーが負ける、ハイセイコーが負ける。あと二百だ、あと二百しかない!」
この時のハイセイコーの単勝支持率は、なんと八十三・五%だったというから、超一番人気。負けたら、大変でした。
しかし、ハイセイコーは勝った! 最後の最後にスピードを上げて。アタマ差で勝った! ここで豆知識。接戦でゴールすると、ハナ差、アタマ差、クビ差とよく言いますが、ハナ差は二十センチ、アタマ差は四十センチ、クビ差は八十センチですから。とにかく、ハイセイコーは勝ちました。中央入りして、これで四連勝。
楽しいのは、この時の配当金。単勝(一着を当てる)、複勝(三着までに入ればもらえる)とも、百円の元返しだったことでした。逆に言えば、もし勝てなかったら大変なことだったかもしれません。

そして、ついに競馬ファン、夢の一日、「日本ダービー」の日がやってきました。一九七三(昭和四十八)年五月二十七日のことでした。東京競馬場には朝から十三万人のファンが押しかけました。
もはや、大井のハイセイコーではありません。「みんなのハイセイコー」です。
この時のハイセイコーの単勝支持率は六十六・六パーセント。
作家の故寺山修司さんは、この時、こんな文章を残していました。
「ひとりの不良少年が、ハイセイコーの馬券を買って、病気の姉に手鏡を買ってあげようと思っていた」と。
場内の手拍子と大歓声のなか、ファンファーレが鳴って、ゲートが開き、各馬一斉にスタート!
第一コーナーでハイセイコーは出遅れ、十番目に通過。増沢騎手は、ハイセイコーを馬群の外側に誘導し、前が空いた状態でスピードを上げ、第三コーナーで一気に二番手で通過。
「ハイセイコー!」「ハイセイコー!」の大歓声のなか、第四コーナーをまわり、最後の直線に入りました。あと四百メートル。増沢のムチが入った。必死で走るハイセイコー。ついに先頭に。
だが、そこで限界でした。最後の最後に、タケホープとイチフジイサミに並ばれ、あっという間にかわされ、三着でゴール。不良少年の馬券も空に舞いました。
作家の石川喬司さんは、この時のことをこう書きました。
「直線で二頭に並ばれた時、ハイセイコーは観客席に向かって『もう僕はダメです』と訴えたように見えた」と。

二〇〇〇(平成十二)年五月四日午後、余生を送っていた北海道の牧場で倒れているのが発見され、獣医によってハイセイコーの死が確認されました。
お疲れさま、ハイセイコー。
そして、その死を悼み、デビュー当時優勝した、大井競馬場のレースの一つ、青雲賞は「ハイセイコー記念」と改称されました。また、大井競馬出身の元祖アイドルホース「ハイセイコー」の馬像が大井競馬場内に建立されました。
いまでも、夜になると背景のイルミネーションが点灯し、きらびやかにライトアップされていますよ。ぜひ、見に行ってください。
そうそう、ハイセイコーは引退後のほうが幸せだったかもしれませんね。なにしろ、引退が決まった時、騎手だった増沢末夫が歌った『さらば、ハイセイコー』というレコードが五〇万枚の大ヒット曲になりましたし、なにより当時のファンが喜んだのは、ハイセイコーの子、カツラノハイセイコが「日本ダービー」で優勝、父の無念を晴らしてくれたことかもしれません。
ここ大井では、馬を一着、二着と数える理由がおわかりになりましたか。

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