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大井町物語 第五話

大井町物語

大井町物語第五話

朔(さく)ちゃんみたいに、なっちゃうよ

今日は、大井町の「公園」にまつわるお話をしましょう。
皆さん、わが大井町にどんな公園があるか、ご存知ですか。ちょっと公園の名前を上げてみましょう。
大井公園、東大井公園、大井中央公園、大井ふ頭中央海浜公園、大井水神公園、大井倉田児童公園、大井水神公園、鮫洲運動公園、大森貝塚遺跡庭園などなど、あとは、これからお話しする大井町緑地児童遊園(通称猫公園)ですかね。
はい、そうです。猫公園。このあたりで、猫がたくさんいることで有名なのは、大井ふ頭中央海浜公園ですが、なぜこの立会道路入口の、散歩を楽しむ小さな緑地が「猫公園」と呼ばれているか、知っていますか?

品川区大井町に住んでいた日本を代表する詩人

それは、日本を代表する詩人、萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)が大井町に住んでいた頃に書いた詩集「青猫」にちなんで作られた猫のブロンズ像「花子と太郎」(中村辰治作)があるからなんです。そうです。二匹の猫の像です
萩原朔太郎と言っても、ピンとこない人が多いでしょうねえ。
「さくたろう? そろそろ桜が?」
くだらない親父ギャグ。「A4で、ええよん」の大塚商会じゃないんですからね。
萩原朔太郎と言えば、知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない「日本近代詩の父」と呼ばれる文学者なんですよ。
詩集『月に吠える』という代表作が有名ですが、この先生、なんと、わが町を題材にした『大井町』という詩を書かれているんですよ。そうです。詩のタイトルが『大井町』。それも、結構長い、何ページにもわたる長編詩なんです。
では、そんな大先生が、なんでわざわざ、わが町『大井町』を題材にしたのか。いや、その前に、そもそも。萩原朔太郎とは、いつの時代の、いったいどんな人なのか。話はそこから始めましょう。

萩原朔太郎は、一八八六(明治十九)年十一月一日、群馬県東群馬郡北曲輪町(現前橋市)に、開業医の父、密蔵とケイの長男として誕生。名前の朔太郎は、長男でしかも一日に生まれたことから命名されました。
と言っても、今の若い人の多くは、なんのことかわからないですよね。実は、
「朔」という字には、「サク」という読みのほかに「ついたち」という読み方があるんですね。ものの「初め」という意味ですね。
一家の長男で、しかも一日生まれ。さすが東京帝国大学医学部出の父親ですね。
ともあれ、田舎の金持ち、萩原家に「朔(さく)ちゃん」の誕生です。
お父さんにしてみれば、朔ちゃんがすくすく育って、父の後を継いで、医者になってくれたら文句なしだったんでしょうけど、ちょっとそんな将来に、不安が襲います。なぜなら、この朔ちゃん、極端な人見知りで、学校でも友だちとは遊ばない。みんなが放課後にわいわいやっているのに、小学校時代から帰宅部。ちょっと前の流行語で言えば、「ネクラ」、「オタク」。きっと、いじめにもあっていたんでしょう。帰ってくると、ひとりで家でハーモニカを吹いていた。

さすがに頭はいいから、小学校を出ると、旧制前橋中学校(現在の前橋高校)に進学。当時は、小学校だけが義務教育ですから、中学に進学する子は金持ちの子。この名門、前橋中学で、いとこの萩原栄次から、短歌を教わった。これに朔ちゃん、見事にはまったんですね。しかも、才能があった。
校友会詩に自作を発表したり、同人誌を仲間たちと発行したり、ついには与謝野鉄幹(よさの・てっかん)の主宰する全国的な文学雑誌『明星』に、短歌三首が掲載されたというから、ホント、お世辞抜きにすごい才能です。
与謝野鉄幹、晶子(あきこ)夫妻と言えば、明治を代表する文学者ですからねえ。与謝野晶子の『君、死に給(たも)うことなかれ』って聞いたことあると言う人も多いんじゃないですか。そして、朔ちゃん、旧制(五年制)とはいえども、まだ中学生で、あの石川啄木らが入っている「新詩社」というサークルに入って、腕を磨いたんですねえ。

ところが、それで気をよくしたのか、その頃の「朔ちゃん」、教室に行かない。家を出る時には、学校に行くと言いながら、郊外の野原で寝込んだり、林のなかを徘徊したり、たまに授業に出ても、窓から雲の流れをぼんやり見ていたり……。「朔ちゃん」、ダメじゃん。
どんなに頭がよくても、学校に行かなければ成績も下がりますよね。中学は留年を繰り返しながら、何とか卒業できても、その上の高等学校は苦しい。父親のコネで入学した高校も入っては落第、編入しても落第の繰り返し。
お父さん、お母さん、ガックリ。親戚の子供たちも親から「ほら、勉強をしないで遊んでばかりいると、朔ちゃんみたいになっちゃうよ」と言われる始末。

そりゃあそうですよね。金持ちのお坊ちゃまクンが、二十五歳過ぎても、高等学校も卒業できず、転校しては落第し続け、挙句に、働きもせず、親から小遣いをもらって、売れない詩ばかり書いているのですから。
あの時代、家が貧しいために、進学できず、小学校を卒業すると、まだ十二歳や十三才で、「奉公に行く」と言って、住み込みで働いている人たちからみれば、うらやましさ半分で、ことあれば「ダメな朔ちゃん」、ウワサ話のネタ。

(ああ、だから田舎は嫌なんだ。外に出れば、白い目で見られ、こそこそ自分の陰口ばかり。いいじゃないか。俺の人生だ。俺の好きなようにさせてくれ!)
いまは群馬県の県庁所在地前橋市になっていますが、故郷の東群馬地方、大正時代はかなり田舎だったんですかね。いま前橋高校と言えば、県内有数の進学校ですよね。でも、馬鹿にされる。そんな毎日を送っていましたから、「朔ちゃん」、生まれ故郷が大嫌いだったんですね。

でもね、「朔ちゃん」、実は、「ただの馬鹿息子」ではなかったみたいですよ。
一九一三(大正三)年、有名な北原白秋主宰の雑誌に五編の詩を発表し、詩人として文学界で評価され、「ふるさとは遠きにありて思うもの…」という詩で有名な室生犀星(むろお・さいせい)と知り合い、生涯の友になるんです。
さらに、詩集『月に吠える』で、全国的に認められ、これによって、「朔ちゃん」、一応、地方の文化人にはなれたんです。でも、原稿料だけでは食えない。いまの作家は、ヒット作を出せば、一気に貧乏から脱出できますけど、当時はそうはいかなかったんですね。あの石川啄木だって、人に会えば、借金を申し込む。そんな生活でしたからねえ。
「朔ちゃん」も生活は全部親がかり。詩人にはなれたものの、医者である父親に生活費のすべてを相変わらずまかなってもらっていたんですね。
(このままじゃいけない。東京に出よう!)
きっと、強くそう思ったのでしょう、第二詩集『青猫』のなかで、萩原朔太郎は、こう書いています。

私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群衆の中に居ることもとめる
群衆はおほきな感情をもった浪(なみ)のようだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲のぐるうぷだ
ああ、ものがなしき春のたそがれどき
都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群衆の中にもまれていくのは、どんなに楽しいことか

(「群衆の中を求めて歩く」)から引用

さすが、ですね。文学してます。
「朔ちゃん」、一九二五(大正十四)年、ついに妻子を連れて、上京します。
季節は、一番寒い二月。そして、東京に着いて、最初に住んだのが、わが大井町だったのです。あこがれの東京での生活がはじまります。
当時の生活について、「朔ちゃん」、エッセイ『ゴム長靴』のなかで、こう書いています。

大井町に移住して来た時、ひどい貧乏を経験した。田舎の父から、月々六十円宛をもらう外(ほか)、私自身に職業がなく、他に一銭の収入もなかった。

この時、「朔ちゃん」、三十九歳。上京しても、パラサイト生活だったんですね。貧乏、貧乏とは言っていますけど、当時の六十円はかなりの金額だったようですよ。きっと、はじめて「このお金で生活するしかない」と実感したのでしょうね。
でも、はじめての東京。この大井町をかなり気に入ったようですよ。
さあ、大変長らくお待たせしました。萩原朔太郎の長文詩『大井町』です。
田舎から出てきた「朔ちゃん」、はじめて住んだ大井町に何を感じたのでしょうか。

大井町

私が大井町へ越して来たのは、冬の寒い最中であった。私は手に引っ越しの荷物をさげ、古ぼけた家具の類や、きたないバケツや箒、炭取りの類を抱へ込んで、冬のぬかるみの街を歩き廻った。空は煤煙でくろずみ、街の両側には無限の煉瓦の工場が並んでゐた。冬の日の鈍くかすんで、煙突から熊のやうな煙を吹き出していた。
貧しい姿をしたおかみさんが、子供を半てんおんぶで背負いながら、天日のさす道を歩いてゐる。それが私のかみさんであり、その後ろから、やくざな男が、バケツや荷をいっぱい抱えて、痩犬(やせいぬ)のやうについて行った。

大井町!

かうして冬の寒い盛りに、私共の家族が引っ越しをした。裏町のきたない長屋に、貧乏と病気でふるえてゐた。ごみためのやうな庭の隅に、まいにち腰巻やおしめを干してゐた。それに少しばかりの日があたり、小旗のようにひらひらしてゐた。

大井町!

無限にさびしい工場が並んでゐる。煤煙で黒ずんだ煉瓦の街を大ぜいの労働者がぞろぞろと群がってゐる。
……………
………………
………………

萩原朔太郎散文詩集『田舎の時計 他十二篇』より引用

まだまだ続きます。「大井町!」が五か所でてきますから。ぜひ、図書館で萩原朔太郎散文詩集『田舎の時計 他十二篇』を読んでください。
萩原朔太郎が上京した大正末期から昭和初期の「大井町」が工場街だったことが、そして、そんな煤けた街を深く愛してくれたことがこれでよくわかります。
朔太郎、最後にこう書いています。

うせ私のやうな放浪者には、東京中を探したって、大井町より好い所はありはしない。冬の日の空に煤煙!
さうして電車を降りた人々が、みんな煉瓦の建物に吸ひこまれて行く。やたらに凸凹した、狭くきたない混雑の町通り。路地は幌馬車でいっぱい。それでも私共の家族といへば、いつも貧乏に暮らしてゐるのだ。

萩原朔太郎さん、あなたが「好んで」住んでくれた大井町を、いま、あなたを讃える「青猫のブロンズ像」が見守ってくれていますよ。「大井町」のことを立派な文章で残してくださって、本当にありがとうございました。
返事はないでしょうねえ。
「詩人に口なし」ですから。

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