あら、暗殺されちゃったの?
えー、突然ではございますが、皆さんのなかで、『有楽町で逢いましょう』という歌をご存知の方、いらっしゃいますでしょうか。え、いない? いないでしょうねえ。昭和三十二年、フランク永井という人が歌って日本中で大ヒットしまして、一躍、東京の有楽町と言う駅名が全国区になり、まだ「流行歌」とか「歌謡曲」と呼ばれた時代の名曲なんですけど、ちょっと古すぎますかね。七十五歳以上の方なら知っていらっしゃるかもしれませんから、機会がありましたら、ちょっと聞いてみてくださいな。
はい、そうです。いや、銀座ではなく、『有楽町で逢いましょう』です。当時、まだJRが国鉄と呼ばれた時代、有楽町という駅は銀座への最寄り駅だったんですが、戦争直後、アメリカ人相手の店がたくさんあったり、物不足ですので「闇市」と言って非公認の青空マーケットが賑わったりして、有楽町駅界隈は銀座とはちがうちょっと暗いイメージがあったんですね。
なんでその話をするかと言いますとね、この歌、実は、関西の「そごう」というデパートが東京にはじめて進出して、そんな有楽町駅の銀座口の反対側に東京一号店を開店することにしたんですけどね、その際、使ったキャッチフレーズが「あなたとわたしの合言葉、有楽町で逢いましょう」。いまなら、「いいね」マークがたくさんクリックされるかどうか、微妙ですが……。
でも当時は画期的なコピーだと思われたんでしょうね、宣伝部は、この言葉を流行させようと、まずビクターに頼んで、レコードを出した。次に小説を、さらには映画を作ったんですね。全部、タイトルは『有楽町で逢いましょう』。すごいでしょ。
すると作戦通り、これが全部大ヒット。レコードは当時としては破格の五十万枚突破。有楽町のイメージがガラリと変わり、おしゃれな町になったんです。もちろん、そごう有楽町店のオープン時には、すごい人だかり。え、場所ですか? そのそごうは閉店し、いまはビックカメラ有楽町店になっています。
それにしても、当時、どちらかといえばあまりイメージがよくなかった有楽町駅が、この宣伝コピーで一躍、おしゃれな駅になったわけです。
その意味で言えば、大井町駅もそうですね。ヒットソングこそありませんが、ここ数年で大きくイメージチェンジした駅のひとつでしょう。どなたか、作ってくれませんかね。『大井町で逢いましょう』的なテーマソングを。なんだか、ブレークしそうな予感がしますけどねえ。
現在、大井町駅はJR京浜東北線、りんかい線、それに東急大井町線と、三つの路線の停車駅になっておりますので、乗り換えだけでなく、ショッピングやお食事などで、お友だちと会うのにも、大変に便利なスポットになっていますね。ところで、皆さんは、『大井町で逢いましょう』と言われたら、大井町のどこで待ち合わせをなさいますか?
わかりやすいのは、駅前の「ホテル・アワーズ・イン・阪急」のロビーかシングル館の「カフェ&ザ・ガーデン」、また、イトーヨーカドー内の「ミスター・ドーナッツ」でもいいかもしれませんね。すぐにわかりますから。
ちょっと前置きが長くなりましたが、今回はいまや発展を続ける大井町がまだ、東京府荏原郡大井村と呼ばれていた明治時代、この地に住んでいた当時の「ある超有名人夫婦」のお話をしたいと思います。
はい、いまの大井町に住んでいた明治の有名人夫婦。
夫の名は、伊藤博文。
そうです。わが国の初代内閣総理大臣。妻の名は、伊藤梅子。元下関の芸者、「お梅」さんです。
ふたりが出会ったのは、伊藤博文が総理大臣になるはるか前の幕末、伊藤俊輔と言い、吉田松陰の松下村塾で学び、長州藩内で高杉晋作の下で、同藩の多数の尊王攘夷派を相手に開国を唱え、一触即発の雰囲気の中で激論を交わしていた頃の話ですから、伊藤が二十四歳、お梅がまだ十六歳の時でございました。二人の出会いは、伊藤がヨーロッパ留学から長州に戻ってきたばかりだという話もあります。
「こらー、伊藤、待て!」「あっちに逃げたぞォー」「伊藤は売国奴だ。許せぬ、探して斬れ!」
ある夜、伊藤は、多数の開国反対派の藩士たちに命を狙われ、必死になって町なかを走り回り、鬱蒼とした亀山神宮の境内に隠れ、機を見て、たまたま店を開いていたお亀茶屋に逃げ込みます。すると、そこで働いていたお梅が機転をきかし、「さあ、こちらへ」と俊輔を部屋のなかにかくまってくれ、難を逃れたのです。まもなく茶屋の入口に血走った目をした侍たちが乱暴に入ってきます。
「おい、女、いまここに侍が逃げて来なかったか。ウソをつくと容赦せぬぞ」
「いえ、お侍様は店にどなたもいらしておりません。ウソだとおっしゃるのなら、どうぞ、店の中をお探しください。ただし、刀をお預けになって、御履物は脱いでいただきます」
「よし、他をあたれ。行け! 必ず見つけ出せ!」
「ははーッ」
(お前、見たんか、そこにいたんか)と突っ込まれそうですが、ともあれ、追手たちは、店を出て、走り去ったわけですね。
「ああ、助かった。かたじけない」と俊輔、改めて十六になる茶屋の娘の顔を見て驚いた。このお梅が若いだけでなく、面長で、目鼻立ちが整い、聡明そうな大変な美貌だった。「ああ、俺のタイプ」。うーん、なんというか、情けないが、男は、特に好みのタイプの美人に弱い。
伊藤は、この恩を忘れずと言いたいが、単にお梅が好みの女性だったので、以来ことあるごとに、お梅のいるお亀茶屋に通った。
一方、お梅は、どんな娘だったんでしょうか。結構、いろいろわかっています。
あの芥川龍之介が『舞踏会』のなかで、お梅のことを書いています。
お梅は、町人、木田久兵衛の長女として、長門の国(山口県)で誕生。家が貧しいため、茶屋の娘として働いた後、赤間関(現在の下関)稲荷町の置屋(芸者屋)「いろは楼」に借金のカタとして身売りされます。昔は、人身売買が盛んに行われていたんですね。地方に行っては、なるべく器量のいい娘を買う「人買い」なんて商売があったそうですから。
お梅が芸者屋に売られたことを知った伊藤は、お梅(芸者名は小梅)の元に通い、妊娠させてしまいます。「どうしてくれる」と怒ったのは、「いろは楼」の主人。やむを得ず、大枚を支払いまして、お梅を身請けします。身請けというのは、大金を払って、芸者をやめさせ、自由の身にする、あるいはお妾さん(愛人)契約にするということですが、まあ、そこまでするくらいですから、二人は結婚しますよね。だって、伊藤にしたら、お梅は自分の命の恩人だし、好みのタイプだし、おなかの子まで宿しているんですから。
はい、ここで問題です。
「しかし伊藤には、お梅と結婚することができない大きな障害がありました。それは何でしょうか」
「お梅には、好きな人がいた」
ぶー。
「伊藤がすでに既婚者だった」が正解です。そうなんですよ。お梅と知り合う一年前に、伊藤は松下村塾四天王のひとり、高杉晋作と肩を並べる秀才入江九一の妹、入江すみ子と結婚していたのです。ヤバいでしょう。開国するか、鎖国を続けるかの天下国家の一大事の時に、尊敬する開国派の先輩の妹を裏切っちゃ、しかも、子供まで作って。ゲス不倫。ダメじゃん。
この時、伊藤にとっても、お梅にとっても幸いだったのは、伊藤の本妻すみ子には子供がいなかったこと、さらに「そういうことなら」とすみ子が伊藤とすんなりと離婚してくれ、さらに離婚成立の二年後、同じ長州藩士長岡義之と再婚してくれたことでした。東出くん、聞いてる?
しかし、同じような運命が、お梅、いや、伊藤梅子を襲います。梅子との間に長女、次女が生まれてからというもの、伊藤の「女好き」に歯止めがかからなくなったのです。伊藤は出世とともに、何人もの愛人を持ち、あろうことか彼女たちを自宅に連れてきます。なかには、泊まっていく女もいたそうです。
「奥様、お邪魔します」、「奥様、はじめまして」、「奥様、今晩、ご主人お借りしますね」、「奥様、このお屋敷から何も持たずに出て行ってくださると、私、うれしい」
そんなこと言いやしないでしょうけれど。
さらに、伊藤は全国各地に愛人がいたと言います。まさに昔から言われている「楽しみは柱を背中に前に酒、左右に女、ふところに金」状態です。高熱にうなされた時でも、布団の両側に芸者を寝かせたというエピソードも残っています。
ある時など、政府主催のダンスパーティの会場で、英語とダンスが得意で、当時、社交界の花形と謳われた美貌の人妻、戸田極子夫人を別室に呼び出し迫ります。パワハラ、セクハラもいいとこですよね。結局、彼女は窓から飛び降りて、たまたま止まっていた人力車で逃げましたが、このニュースはあっと言う間に文春砲ならぬ、萬朝報という新聞の記事になり、大騒ぎになりました。
しかし、伊藤は、あわてず騒がず、極子の夫を大出世させて、ことなきを得ます。いまなら、内閣総辞職、解散総選挙でしょう。ちなみに、この戸田極子夫人、写真を拝見しますと、宝塚出身の女優、天海祐希さんによく似ていますから、明治時代の社交界のヒロインだったのもうなずけますね。
しかも伊藤は、自身の女好きエピソードを隠そうとはせず、むしろ周囲に自慢していたようです。そのため、ある時、それが明治天皇の耳に入り、女性関係を慎むように注意されても、心を改めることはなかったと言うから、徹底していますね。
さて、話をお梅さん、いや、ファーストレディに戻します。
それでも、梅子さんは動じない。伊藤がどんなに女遊びをしようと咎めることを一切しなかったんだそうです。それどころか、他の女が産んだ子供たちまで、自分の娘や息子として育てあげたのです。伊藤との間には二人の娘(長女は二歳で夭逝)しかいないのに、戸籍上には、全部でお手伝いさんが産んだ娘、その他、男の子三人を養子にして、計六人の母となっています。
梅子の偉いのは、子育てだけではありません。もともと貧しい町人の娘で、芸者に売られたくらいですから、文字が書けなかったのですが、猛勉強。少しでも夫のためにと夫の代筆ができるまでになり、また下田歌子の門下に入り、和歌を学び、皇后とも和歌のやりとりができるまでに上達したそうですよ、
さらには文明開化に伴い、英語やダンスも見事に習得したそうです。すごい向学心ですね。
こうして、梅子は、日本初の内閣総理大臣夫人、つまり、ファーストレディになるわけです。伊藤博文が総理大臣になった時には、首相主催の舞踏会で流暢な英語を披露し、また率先して、洋装で、外国人大使たちと社交ダンスに興じたそうです。こういう妻を「賢婦人(けんぷじん)」と言います。いまや死語ですね。
その伊藤博文、一九〇九(明治四十二)年、中国東北部の大都市ハルビン駅で暗殺されます。犯人は、当時、日本の保護国になっていた韓国の独立運動家、安重根(アンジュングン)で、「韓国の独立と東洋平和のため、韓国統監府の初代長官だった伊藤を狙った」と言うのがその理由でした。時に伊藤博文、五十八歳。
夫の突然の訃報を聞いた梅子は、こんな和歌を詠んでいます。
「国のため 光をそへしゆきましし、君とし思へど 悲しかりけり」
初代内閣総理大臣伊藤博文と梅子が住んでいたお屋敷は一部が山口県萩市に移築され、元大井村の屋敷跡(品川区大井三丁目)には、いま広大な敷地の高級マンションが建っています。
そして、近くの品川区西大井六丁目には、高さ約二メートルの円墳の前に鳥居がある伊藤博文の神式の墓所があり、隣りには、やや小ぶりの梅子の墓があります。
大井町ゆかりの超有名人夫婦の物語、どうでしたか。
ちなみに、二〇一六年に小中一貫校になった品川区立伊藤中学校の「伊藤」は、この伊藤博文から名づけられています。郷ひろみや真田広之が卒業生とか。
またいつか、あなたとわたしの合言葉『大井町物語』で逢いましょう。