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大井町では、ゼームス・ボンド?
こんにちは。
ホワイトエッセンス大井町矯正歯科のブログに、ようこそ。
私たちの歯科医院がある大井町と、深い関係のある歴史上の人物を訪ねる旅、「大井町物語」、いつもご購読、ありがとうございます。
今日は、ちょっと角度を変えて、大井町の「坂」にまつわる人物のお話を書きたいと思います。
皆さん、長いこと続いたアクション映画「007」シリーズ、あの主人公の名前、誰でしたっけ? そうですよね。
ジェームズ・ボンドでしたね。
本日の主役も、同じジェームズなのですが、その方はなぜかこの大井町では、「ゼームス」と呼ばれていたようなんです。
そうです、そうです。「ゼームス坂」の「ゼームス」です。
JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道に坂がありますよね。
この坂は、もとは浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていたのですが、あまりにも急坂なので、明治時代にこの坂の下に住んでいたジョン・ジェームズという英国人が私財を投じて現在のような緩やかな坂に改修してくれたんだそうです。
それで、この坂の名前を「ジェームズ坂」、いや、当時、日本人か彼の名を呼んでいたそのまま、感謝の意味を込めて、「ゼームス坂」と呼ぶようになったそうです。
文明開化の頃、外国人居留地のあった横浜では、「犬のことを英語でカメという」と書かれた記録が残っています。これは、外国人が自分の愛犬を「カム!カム!」と呼んだのを聞いて、「ああ、犬は英語でカメなんだ」と知ったかぶりをしたのがはじまりだ、と「文明開化の英語」という本に書かれていました。
「ジャームズ」が「ゼームス」なら、まだいいほうですね。
では、このジョン・ゼームスって、いったいどんな人だったのでしょうか。
早速、調査に入りました。いやあ、おもしろかった!
ゼームスは、一八三九年、イギリスに生まれ、成人すると、海軍に入り、航海術を学びます。
そして、海軍退役後、東アジアとの交易で有名な世界的商社、ジャーデン・マジソン商会に入社し、二十八歳の時に、極東ジャパンの長崎支店勤務となります。
時は、幕末も幕末。ペリーが浦賀に来航してから、すでに十三年の月日が経っていますから、わが国は、三百年続く江戸幕府の討幕運動で揺れに揺れていました。
長崎のジャーデン・マジソン商会は、長崎の観光地、グラバー邸で有名なグラバー商会を代理人に立て、幕府の混乱に乗じて、討幕派の諸藩に手を貸します。
「外国を見にいきたい」という提案があれば、「マネーさえもらえれば、オッケーですよ」と密出国のお手伝いをしたり、「鉄砲、大砲、軍艦、たくさんありますよ。買うなら、いまでしょ」と売り込んだり。
え、坂本龍馬ですか?
龍馬は、わが国は島国だけに、海軍の必要性を訴え、亀山社中(のちの海援隊)を作っていますからね。ゼームスと出会っているとは思いたいですけどねえ、ゼームスが来日した翌年に、龍馬は暗殺されてしまっています。
ただ、海援隊の隊士であった福井藩士、関義臣をイギリスに密航させるため、ゼームス自ら船長としてローナ号に乗り込み、長崎からロンドンに向かいます。
ところが上海からシンガポールに向かう途中で、暴風雨にあっただけでなく、海賊にも襲われ、さんざんな目にあって、途中から引き返し、日本に帰着していますから、ひょっとしたら、坂本龍馬とも面識があったかもしれませんね。
ゼームスは、明治元年、元イギリス海軍にいた経歴を買われ、航海術の専門家として土佐ではなく、熊本藩細川家の委嘱を受け、「軍艦を購入し、その船の艦長になってほしい」と頼まれます。
「はい、はい、それはいいアイデアですね。お金、たくさん、たくさんね」
とかなんとか言って、いったんイギリスに戻り、大砲の多くついた軍艦に乗って戻ってきます。どのくらいの資金が必要だったか、想像を絶しますね。
ゼームスの評判がよかったんでしょうね。
それから二年後、ゼームスは航海術の御雇い講師として、できたばかりの明治新政府の海軍省に招かれます。のちの日露戦争で大活躍した東郷平八郎たちの先生です。
さらに、明治十年の西郷隆盛の反乱、いわゆる西南戦争の時には、軍艦の艦長として九州と四国の間、豊後水道の封鎖や偵察を行いました。まさに、新政府軍の「軍事顧問」ですね。
もちろん、営業も盛んに行います。
「イギリスにいい軍艦、あります。いま、お買い時。ポイントついてます」
そんなことは言わなかったでしょうが、西南戦争従軍の翌年、母国イギリスから戦艦二隻を明治政府に売り込み、自らが艦長として乗り込んだと言われています
まだ、近代国家になりきれていない当時のわが国で、新政府を相手に、海軍の軍人と商人の二枚看板で、大活躍したということでしょうか。
ひょっとしたら、明治時代の「007」、ゼームス・ボンドだったかもしれませんね。 このように、ゼームスは文明開化がはじまったばかりの大日本帝国海軍に大きな功績を残したことによって、明治政府から終身年金の授与、さらには「勲二等旭日章」という勲章までもらっています。もちろん、亡くなるまで、わが国に住みました。
大井町 ゼームス邸跡には…
でも、調べていくと、このゼームスという人は、とても評判がいいんですよね。先に書いたように、自分の住んでいた地域の急坂を地元民のために自費で補修したり、休みの日には、近所の子供たちに、イギリス製のお菓子を配ったり、
いわゆる親日家だったことは間違いありません。
まあ、ただの悪徳商人だったら、勲章なんかもらえませんからね。
大井町の元ゼームス邸跡地には、こんな碑が建っています。
ゼームス坂跡地について
此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。
M・ジェームスは、慶応二(一八六三)年に二十八歳の時に来日した。そして、坂本龍馬等とも知り合い、のちに日本海軍創設に貢献し、明治五年、海軍省雇い入れ以降、幾多の変遷を経て、住まいを此の地に構う。
隣人に慕われつつ、明治四十年に没。墓は身延山本堂裏山にあり。
「日本国勲二等 甲比丹(カピタン) J・M・ゼームス之墓」と刻まれている。
その頃のジェームス在りし日を偲ぶ欅(けやき)も品川区の保存指定樹として樹齢百数十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。
昭和三十一年十月
碑にも、「ジェームス」とあるのが、なんとも言えませんね。
この跡地、いまは、三越ゼームス坂マンションになっています。
そうそう、こんな話が残っていますよ。第二次世界大戦の時、適性語、つまり日本で使われていた英語が一切禁止になったのに、この「ゼームス坂」だけは許された理由、わかりますか。
なぜなら、この近くに税務署があって、係官が「税務署坂」と聞き間違えたからだそうですよ。「ゼームス」でよかったんですね。
では、また、次回、お会いしましょう。